歴史・文化

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歴史

大田が位置する国東半島は、火山によってできた典型的な地形が見られる半島です。放射状に延びる谷は古くから「二十八谷」と呼ばれていました。人々はここに住み着き、田畑を開いて村を営み、それが次第にまとまった末、古代には六つの郷が成立しました。やがて宇佐神宮が進出し、国東半島一帯の大部分は神領地としての荘園が営まれるようになりました。

大田地区も上記の例外にもれず、1057年に宇佐宮の神官で当地の有力者だった紀季兼が開発し宇佐宮に申請、宇佐宮領荘園となりました。ここは「田原別符」と呼ばれ、1158年時点でその広さは約59町7反(約59ha)でした。

鎌倉時代の1213年には田原泰広がこの地に入り、以後宇佐宮から鎌倉武士勢力による支配へと移り変わりました。田原氏はその後長きに渡りこの地を治めますが、最後は主家である大友氏との離反対立によって、1580年に滅亡することとなります。

これらの背景から大田村には主に、宇佐宮による影響を受けたものと、田原氏の影響を受けた文化財が見受けられます。前者の代表的な例としては、ご祭神に宇佐神宮の分霊を有する田原若宮八幡社が挙げられます。また、我々が接する中でも、神と仏の両方を祀っている地域の方々もいらっしゃいます。後者は、当時全国的にも支配階級である武士に支持されていた禅宗の影響で、田原氏の信仰から名刹宝陀寺の創建や、「どぶろく祭り」で有名な白髭田原神社への崇敬から神輿を奉納したりと、地域文化に大きな影響を与えました。

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近代史 行政区の変化

1872年
前年の廃藩置県から様々な変化があり、現在地元ではよく使われる地名が各村として区分される(俣水村、波多方村、白木原村、小野村、沓掛村、永松村、石丸村)。

1878年
政府の方針として郡町村を基本単位とすることになり、上記の村は高田村(現 豊後高田市)に郡役所を設置した西国東郡に属することなる。

1889年
「明治の大合併」の流れにより、上記の村のうち小野村、永松村、沓掛村、石丸村は田原村に、波多方村、俣水村、白木原村は朝田村となる(写真は旧田原役場)。

1954年
「昭和の大合併」の流れにより、朝田村と田原村が合併し、大田村となる。

2005年
「平成の大合併」の流れにより、杵築市と山香町と合併し、大田村は杵築市の一部となる。

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農業文化 世界農業遺産 

大田の農業文化を説明するに当たっては、世界農業遺産(GIAHS)の説明なしには語ることができません。

GIAHSとは、国際連合食糧農業機関(FAO)による認定制度で、グローバル化、環境悪化、人口増加の影響により衰退の途にある伝統的な農業や文化、土地景観の保全と持続的な利用が図られている地域を「世界農業遺産」に認定しています。UNESCOの「世界遺産」による不動産の登録ではなく、農業の「システム」を登録の対象としています。
日本では全国で11箇所登録されており、うち国東半島は「クヌギ林とため池がつなぐ国東半島・宇佐の農林水産循環」として、2013年に登録されました。

ここではFAOによるGIAHSの認定基準から見て、国東半島ではなく大田地域に焦点をあててどのようにその基準を満たしているかを、我々独自の知見から紹介します。

・食料および生計の保証
大田でも多くのクヌギ林が見られ、それを利用した環境的にも持続性が高い原木しいたけ栽培も見られる。石生谷ため池を例に、周辺をクヌギ林が囲んだ、水源をかん養しているところもあり、それによって米作も安定して行える。

・文化、価値観および社会組織(農文化)
白鬚田原神社にて毎年10月17、18日に行われる「どぶろく祭り」は、米の収穫を感謝する祭礼で710年から1300年以上続いている。
また、田原若宮八幡社では「とうや行事」が行われ、秋の祭りではオハケタテというしめ縄を貼る行事から始まり、酒ともち米を供えたりして収穫を感謝する。

・景観と土地・水管理
地域住民の営みによって保たれている田畑やため池群を見ることができる。

・生物多様性
絶滅危惧種II類に指定されているオオイタサンショウウオや、絶滅危惧I類に指定されているカブトガニの幼体などが確認できる。

・知識システムおよび適応技術
原木しいたけ栽培による持続的なクヌギ林の管理利用、ため池群による治水と地域住民によるその管理が見られる。

 

以上のような形で、大田では今でも伝統的なしいたけ栽培や、国東半島特有の治水システムで営まれている農業の景観が見られます。

 

参考:クヌギ林とため池がつなぐ国東半島・宇佐の農林水産循環

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